
大磯・旧吉田茂邸・他へ (2003年11月27日)
次のようなキャッチフレーズの 近畿日本ツーリストのバス旅行に参加しました。
非公開の偉人の名邸を皆様だけに
〔七賢堂を有する 「昭和の宰相邸」 特別公開
旧伊藤博文邸・滄浪閣の本格中華料理 〕
〔1〕
新宿を8:45 に出発 首都高速から東名を走り大磯へ。最初は島崎藤村が眠る地福寺へ。
船着山 地福寺
真言宗京都東寺末の古刹で、承和四年(837)の創建と伝えられています。
かつて家康が利用した「御茶屋」があったところと言われているそうです。
梅の古木に囲まれた島崎藤村の墓と妻静子さんの墓があります。
「島崎藤村墓」の文字は有島生馬の筆だそうです。

山門 と 本堂

右が藤村・左が静子夫人の墓。古梅の傍らには木の株のような、木とも石とも見える塊がありました。
地福寺をあとに歩いて行くと下のような碑がありました。
海水浴場発祥の地
明治18年に元の陸軍軍医総監である松本順が、東日本で最初の海水浴場として、
大磯の照ヶ崎海岸を紹介したことからだそうだ。それまで(明治以前)の日本では、
まだ海水浴という概念はなく、潮湯治と称して祓いの行事、または健康法の1つとして海に入る風習が
行われていたに過ぎなかったそうです。西洋の公衆衛生学に関心を抱いていた松本順は、
この日本古来の湯治の伝統と海水浴の概念を融合し、広くー般にも紹介していったのだそうです。
湘南発祥の地 大磯 鴫立沢
湘南発祥の地 大磯 の碑がありましたが、近くの鴫立庵にある「鴫立沢」の標石は
江戸時代初期に建てたものだそうですが 裏側には 「著盡湘南 清絶地」とあり
「湘南」のネーミングの始まりとされています。(この碑ではありません)
新島襄先生終焉之地
新島襄 キリスト教主義教育による人民教化に献身し、1875年京都に同志社英学校設立。
1890年療養先の大磯で志半ばにして47才の生涯を閉じました。

そのまま進むと鴫立庵に着きました。
| 鴫
立 庵 寛文4年(1664)小田原の崇雪が草庵を結 んだのが始まりで、元禄8年(1695)俳人の 大淀三千風が入庵し、第1世庵主となりました。 現在は京都の落柿舎、滋賀の無名庵とともに 日本三大俳諧道場の一つと言われています.。 毎年3月最終日曜日、西行法師にちなんで、 俳句大会、短歌大会が行われます。 門前には流れ(鴫立沢)があり、砂浜が広がる 景勝の地であったことが推測されるます。 庭には俳諧の区碑が数多く並び、いまでも 俳句会が開かれています。 |
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西行法師の和歌 「心なき身にもあはれは知られけり 鴫立澤の秋の夕ぐれ」でも有名です。




鴫立庵をでて、道を渡り次の島崎藤村旧宅へ。
島崎藤村 旧宅 静の草屋
昭和16年1月4日、左義長を見に大磯に来た藤村が大磯を大変気に入り、
72歳で永眠するまで2年余りを過ごした邸宅です。現在は大磯町が管理しています。


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−静の草屋−
島崎藤村旧宅は、別荘等に使用する目的で大正後期から昭和初期にかけて建築されたもので、
当時周辺には同じような貸家が数軒存在しており、この一体を地元では「町屋園」と称していたようです。
藤村邸の特徴としては、@当時の貸家に比べ、玄関や広縁等がゆとりをもって造られている点と、
A貸家では造られることがあまりなかった書斎が設けられている点があげられます。
特に書斎に関しては、藤村が最も気に入っていた様子で、静子夫人の著書「ひとすじのみち」には、
「ここの大磯の住居は、わずか三間の古びた家に過ぎないが、おそらく50年に及ぶ主人の書斎人としての
生活の中で最も気に人られたものだったろう。」と述懐しています。(大磯町パンフレットより)
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〔左義長 (さぎちょう) 三毬杖〕 について
私は左義長とは人の名前かと思っていたので??でした。インターネットで調べてみました。
1月14日 正月の松飾りや書初めを北浜海岸でピラミッド型に積み上げ、
日が沈んでか ら火をつける道祖神の祭り。別名「どんど焼き」「さいと」などと呼ばれる。
この火で焼いたダンゴを食べて無病息災を祈る。(県の無形文化財)
〔毬杖(ぎつちよう)を三つ立てたところから〕小正月に行われる火祭り。
宮中では正月一五・一八日に清涼殿南庭で、青竹を立て扇・短冊などを結びつけて焼いた。
民間では竹を立てて門松・注連縄(しめなわ)・書き初めなどを焼き、その火で餅を焼いて食べて
無病息災を祈る。どんど。どんど焼き。さいと焼き。さんくろう焼き。
毬杖(ぎつちよう) 木製の毬(まり)を打つ長い柄のついた槌(つち)。彩色の糸で飾ることがある。
また、それを用いて正月などに行う遊戯。ぎちょう。きゅうじょう。
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次は旧伊藤博文邸で昼食です。〔1〕 終わり。